正解を求めるのではなく、最適解をつくりだす
正解を求めるのではなく、最適解をつくりだす
大学3年生の時に、研究室に配属されて、さて私はどんな卒論に取り組めばいいんだろう?って思って担当教授に相談したとき、「なんでもいいんじゃない?何がしたいの?」って言われて、戸惑ったことがあります。
何でもいいって、何したいって、何よそれ。そっちが考えてよ。みたいな。
結局その後とある企業さんの委託で始めた研究が楽しくなって、そこから派生させた内容で卒論を書きました。すごく楽しかったし、思い出深い卒論になりました。
卒業後に新卒で入社した会社でも、同じような戸惑いを覚えた記憶があります。
クライアントと打ち合わせして、業者さんと連携とって、納期を一日でも前倒しして、出来上がった成果をクライアントも喜んでくれて、社内でもそこそこの評価をしてもらって。
だけど時々、あれ?私のやってることはこれであってるのかな?って思う瞬間がありました。
上司に相談しても、うん、別にいいんじゃない。お客さん、喜んでくれてたじゃん。よくがんばってると思うよ。って感じで。
求めていたのはそんな言葉じゃないのに、それをうまく伝えることも出来ずにもやもやを抱えたまま、また次の案件に向かっていくという繰り返しでした。
いまならわかる。
当時の私が求めていたのは、「それが正解です」という言葉であり、確信だった。
子供の頃は、特に学生の頃は、用意された唯一つの正解があって、それを選ぶことが正だった。
それが、大人になると突然「何をどう選んでも正解ですよ」になる。
もっというと「何をどう選ぼうと、それを正解としていいんですよ」かな。
そのギャップに、すごく戸惑った。
本来なら、正解という束縛から自由になれたはずなのに、求める答えが一つじゃなくなった途端、何を選べばいいのかわからない。
何を選んでもいいのに、何を選んでも正解じゃない気がする。
大人になるということは、色々ある正解の中から、今の自分に一番合った「最適解」を選べるようになるっていうことだ。
何を選んでも正解。その中で、自分に一番の最適を見つける。
この年になって、ようやくそれを楽しめる余裕が出てきた。