もっと本気でやれたはず
もっと本気でやれたはず
先日友人に会いました。
彼女は以前から挑戦している資格試験があって、つい数日前にその結果が出たばかり。
残念ながら、不合格でした。
仕事をしながら勉強時間を確保して、試験を受けただけでも立派。今までやってきたことは無駄ではないからまた来年挑戦したらいいよって、よくある慰め方をしていた時に、彼女がふっと漏らしたのが、
「でも、今振り返ってみると、もっと本気でやれたよなって思う」という言葉でした。
その話題はそのまま流れていってしまい、その後もあれこれ楽しくおしゃべりして笑顔で別れて、帰り道に彼女の言ったことを改めて噛みしめました。
たいていのことは、もっと本気でやれたはず。
自分の行いを振り返っても、ことにうまくいかなかったもの、いわゆる失敗や挫折という経験を振り返った時に、じゃあそれを成功させるための自分の行動は十分だったかと言われると「今思えばもっとやれたことがあったかも」「もっと時間もかけられたし、もっとできることがあったかも」ということがたくさんあります。
上手くいったことはいい。
とりあえずであっても、ひとまず成功というところにたどりつけたものは、自分でもよく頑張ったなって思える。多少手を抜いていたことがあったにしても「まぁ、結果よければすべてよしだよね」なんて言える。
だけど失敗した時。運が悪かったとか、どうしようもない理由があったとか、色々言い訳はできるけど、じっと自分の身を振り返ってみると「もっと本気やれた」と思うのです。
やってるときはがんばっている。精一杯やってる。
少なくともそう思ってるけど、全てが終わったあとに振り返ってみれば、もっと本気でやれる余地があったことに気づいたりする。
再スタートを誓った彼女が言ってた。「もう絶対こんな気持ちにならないように、来年こそは全力で、本気でやるわ」。
何かに挑戦する時には、振り返った時に「もっとやれたはず」なんて言わなくていい自分であるように本気でやろう。