見えない誰かの助けによって
我が地域のゴミ捨て場は、カラスに狙われている。
一部の住人が、食べ残しや生ごみなどを無頓着にゴミ袋に入れているようで、そりゃカラスとしてはぜひとも美味しく召し上がりたいだろうって感じ。
ご馳走に歓喜した結果、往来にゴミが散らばってしまうのも無理はない。
でもそれを片付けるこっちの都合も、少しは考えて頂きたい。
ほぼ毎週のように散らかったゴミを集め、水を流して掃除をし、予防のためにとゴミたちの上にネットをかけたり、鬼の顔を描いた風船を袋に結びつけたりしていた。
するとピタッと、カラスの襲撃がなくなった。
暑くなったからカラスも夏バテかな~なんて笑いながら、路上にきれいに並んだゴミ袋を満足気に眺めて出勤する私。嬉しかった。
忙しい朝の時間に他人のゴミを集めて回るのは中々にしんどいものですし。
ところがである。
昨日、いつもより少し早めに出勤しようとしたら、道路中に散らばったゴミを隣のおばちゃんが掃除してくれてた。
慌てて駆け寄ってみると「ねー、最近またひどいよね、毎週こんなだよ」って。
カラスの祝宴は続いていた。
単に、私が気付く前に隣人が清めてくれてただけだった。
自分が描いた何の役にもたっていな不細工な鬼の風船が、あきれたようにこっちを見ていた(気がする)。
今日の自分が、平穏に、平和に、無事に、つつがなく、最高ではないかもしれないけど特別これに困ったなぁってことなく、一日を過ごすことができたのは見えないところで誰かがそっと助けてくれているからなんだろうな。
私の代わりに夕飯を作ってくれた夫。
私の不在時に緊急対応してくれた同僚。
職場をすみずみまできれいにしてくれる掃除のおばちゃんのおかげで今日も気持ちよくトイレを使わせてもらえるし、コーヒーを育てて、出荷して、加工して、運んで、売って、淹れてくれる人がいるから私は美味しいコーヒーが飲める。
そういう、見える部分だけでもたくさんの人に支えてもらっているのに。
目に見えない、私が気付くこともない、だから感謝することすらない、たくさんのたくさんの人の手によって私は今日も気持ちよく暮らしているんだ。
その途方のなさにちょっと尻込みしつつ、私も相手に気づかれずにそっと誰かのためになるような些細な存在でありたいものだなと思う。
優しさのほとんどは睡眠でできている
娘2歳が、絶賛イヤイヤ期だ。
一度スイッチが入ると、世の中のありとあらゆるものに反旗を翻す。
オレンジジュースが飲みたいと言うのでコップに注いで渡したら、渡した瞬間に「ぶどうジュースが欲しかった」とギャン泣きしだし、ぶどうジュースは家にないから買いに行こうかと説得しても「いや!」。
じゃあぶどうのゼリーはどう?「いや!」
カルピスならあるよ?「いや!」
気分転換に公園に行こうか?「いや!」
しまいには、オレンジジュースをまき散らして「いや!」
ジュースでべとべとになった床が「いや!」
とにかく、何もかもが嫌な娘。
よくもそこまでと感心させられる。
そんな地雷原のような家庭で日々娘のご機嫌を伺いながら生活するうちに、気づいたことがある。
普段天使のように優しい夫が、この娘の癇癪に、結構キレてる。本気で。
確かに、あらゆる提案を拒否され続けるのはつらい。
代替案も受け入れてもらえない。
だけど、しんどいながらも適当にやり過ごしている私の横で、2歳児相手に本気でイライラしている様子の夫。
最初は「え、そんなに怒る?」ってビックリした。
言うても相手2歳やで?まぁ確かにヒステリックやけど、そこまで??
なんか虫の居所が悪かったんかな。
夫は理論派だから、一見秩序なく見える娘の行動が理解できなくて私よりしんどく感じるのかな。
そんな風に思ってたけど、夫を観察していて分かったことは単純だった。
彼はあまり寝てなくて睡眠が足りてないんだ。それでイライラしてるんだ。それだけの話じゃないか。
相性とか、もともと優しい人だとか、忍耐力があるとか、楽観的とか、そういうのよりもむしろしっかり睡眠をとって心身ともに活力ある状態かどうかが人への優しさに直結する。
よく眠って元気であれば、娘が壁にクレヨンで落書きしても「マジかw」で済む。
おにぎりを出したら拒絶され、ご希望通りうどんを作って、さっきのおにぎりを息子に食べてもらったら「おにぎりがよかったのに!」ってなって、もう一度おにぎりを作ったら「さっきのおにぎりにして!」って言われても「どんだけーw」って笑ってられる。
もちろん、心じゃ泣いてるときもあるし、キーっとなるときだってあるけど、総じて笑い話にできる強さを持てる。元気なら。
疲れているときに、理不尽な要求にさらされて、横でギャン泣きされるのを笑ってみてるなんて誰だって無理だよ。イライラして当然だよ。まずは自分を守んなくちゃだもん。
私はよく人当たりがいいとか、親切だねとか、じっと待ってくれて優しいよねとか言われることがある。
それは私の天性の良さであると自分では思ってた。
反対に、カリカリしてる、怒りっぽい人は人間として未熟な人だと。
だけどそれは大間違い。
私が優しいと言ってもらえるのは、私という人間が優れている訳ではなくて、単純によく眠るからだ。
よく眠って心も体もいつも元気だから、そうできる余裕があるに過ぎない。
人に優しくしたい人、家族に優しくしたい人、とにかく自然にそうできるようになるまでよく眠ろう。話はそれからだよ。
好奇心を満たした先に、教養がある
先日ある神社を参拝した時に、境内の前に大きな樹が一本立っていました。
枝先を見ると小さなつぼみがたくさんついていて、樹皮のボコボコした感じから「もしかして桜かな?」と連れと話していたら、丁度正面に「桜(ソメイヨシノ)」と看板が下がっていました。
やっぱり桜だったね、と納得したのですけど、実はその看板に他にも案内が書いてあったんです。
『桜(ソメイヨシノ) バラ科』
え、バラ科?桜なのに??
不思議に思いつつ調べてみたら、なんと桜は分類上はバラ科なのですね。
桜だけでなく、私が調べた限りでは梅も桃もバラ科でした。バラ科すごい。
こういう雑学を仕入れたら、すぐ人に話したくなります。うずうずしちゃう。
ちょうど翌日の通勤中、同僚と梅の木の前を通ったので「知ってました?梅って実はバラ科なんですよ」ってドヤ顔で披露しました。
「桜も桃も、もっというとリンゴもイチゴもアーモンドも全部バラ科なんですー」
同僚も優しい人だから「えー、そうなの?知らなかった~!」なんて大げさに喜んでくれちゃって。
気分よく歩いてたら、その同僚の彼女が一言。
「教養あるね~」って。
『教養ある』。
そんなの初めて言われました(たぶん)。
おそらく世間一般で言うところの「教養がある人」というのは、私のように調べたことを言いふらしたくてたまらない人種ではなく、どんな話題であっても幅広い知識を通して豊かさを得られる人なのだと思います。
なので私は教養のある人ではない。
ではないが、しかし、確かに教養の一端を垣間見た気がするのも確かです。
教養ある大人になる、というとものすごく途方もない感じがするけれども、ひょっとするとその教養というのはこういうごく身近の、今この時に疑問に思うことを調べていったことで得られる知識の集合体なのかもしれない。
好奇心を満たしていった先に、憧れの教養ある大人になった自分がいるのかもしれないなぁと思ったのでした。
人の言葉はそのまま素直に受け取ろう
「そのスカート可愛いね」
先日職場の先輩(同性)に言われたこの言葉。
その場ではにっこり笑ってありがとうございますと返しました。
しかし内心は「もしかして仕事場に履いてくるには短すぎるよって暗に注意されたのかな~」と憂鬱な気分に。
たぶん一般的にはミニスカートとも呼べないくらいの丈のスカートなのですけど、私が長身かつ普段パンツルックが多いこともあり、いやに短いスカート履いてるって印象になってしまったのかなぁと。
時々いませんか?非難したいものを何となく話題に上げることで本人に気づかせようとする人。
時々先輩のそういう一面を見たことがあったから、余計心配になってしまいました。
それ以来、そのスカートは職場には履いていってません。なんとなく避けてしまう。
しかしながら、ここまで読んでもお分かりの通り、私が言われたのは「そのスカート可愛いね」という言葉だけ。
もしかすると先輩は本当にそのスカートに関してなんらか注意したくて言ったのかもしれない。
だけど、もしかすると先輩は本当にただ可愛いスカートだと思って言ったのかもしれない。
私が一人であーだこーだと深読みしても、答えは分からないのです。
もし私が改めて先輩に「あの時のスカート、もしかしてちょっと短すぎました?」ってズバリ聞いたとしてもそれは変わりません。
だって本当のことを言ってもらえるかは分からないから。
「そうだよ、さすがにあれは仕事する格好じゃないよ」って丁寧に教えてくれるかもしれない。
いややっぱり本心は隠して「えー、そんなことないよ可愛かったよ~」って誤魔化してくれるかもしれない。
「え、そんなこと気にしてたの?」って本心から褒めていたことを伝えてくれるかもしれない。
そもそもそんなことすっかり忘れて「スカートって何の話?」ってなるかもしれない。
結局本心を知ることはできないのですよね。深読みを続ける限り、どこまでも潜り込んでいってしまう。
どうせ分からないのだったら、人の言葉はそのまま素直に受け取ってしまおうと決めました。
ただのお世辞だとしても、褒め言葉は褒め言葉として受け取ってしまう。言葉の裏を読もうとしない。
それでお気楽な人だねって陰口を言われてもいいじゃない。
あの人にはズバリ言わないと伝わらないんだと理解してもらえれば、人の言葉の裏を読んで疲弊するようなこともなくなるから。
人の言葉はそのまま受け取っておこうね。
誰よりもたくさんありがとうを言う
今の職場では、一番下っ端として働いています。
ベテランさんに囲まれて、たくさんの知識やノウハウを教えてもらいながら働ける環境は最高。
一方で、何もできない自分にふがいなさを感じることも多々あります。
経験なんてこれからいくらでも積んでいけると思いつつ、ついつい周囲のできる人たちと自分を比べてしまうのです。
つまらない自己否定をしている暇があったら、一つでも仕事を覚えよう。
今日教えてもらったことを明日は一人でできるように習得しよう。
そういう気持ちで日々業務に取り組むようにしています。
そして、何より一番大事にしているのが「ありがとう」と伝えること。
ありがとうっていうの、得意です。
教えてもらうばっかり、助けてもらってばっかりの環境だから自然と感謝の言葉が多くなるし、そもそも「ありがとう」という言葉に抵抗がないのかもしれません。
昔は「ありがとう」って気軽に口にすることができませんでした。
あんまり軽々しく言うことじゃないと思ってたし、親しい間柄でいちいち感謝を伝えるのは他人行儀なのかなって思ったりして。
いまでも似たようなタイプの人を見かけることがあります。
今ではすぐに「ありがとう」って言うようになりました。
もしかすると中には「いちいちうるさいな」って思ってる人もいるかもしれないけど、でもありがとうって私は言われると気持ちが良いです。
だから言う。たくさん言います。
今日も職場で、たくさんありがとうを言いました。
そのおかげかどうかは分からないけど、とても気分良く過ごすことができました。
教えてもらったら、ありがとう。
助けてもらったら、ありがとう。
気にしていると、一日に何度もありがとうって言える機会があることに気づきます。
それってとっても恵まれたことですね、ありがたいなぁ。