夢を叶えた後も、生活は続く

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生活のためにお金を稼ぐ必要がなくなって、まずやりたいと思ったのが「高校時代に憧れていた職業に就く」ことでした。

ある職業に就くことを夢見ていたものの、当時の担任の先生に「あなたには向いていないし、もしなれたとしても(お給料がそんなに良くないから)大変だよ」と言われて諦めていたのです。

他人のそんな一言で簡単に諦めがつく程度と言われればそれまでなのですけど、そして、それを諦めて進んだ今の人生に一切の悔いはないけれど、心のどこかに引っかかっていたのも本当のことです。

 

せっかくならば、今こそその夢を叶えるときじゃないかと奮い立ちました。

そこからは、我ながら素早かった。

インターネットの通信講座に申込み、2年の予定が1年で無事資格取得。

資格が取れる分かった段階で求人検索をしてみたら、たまたま近所の職場で希望通りの職種、待遇の求人があり、ダメ元で応募したところ翌週にはその職場で働いていました。

 

あっけなく、自分でもびっくりするほどトントン拍子に、夢の職業に就いていました。

今でも仕事中にふと手を止めて、あぁ今の私は学生時代の自分が憧れていた場にいるんだなって思うことがあります。

 

それを叶えるのは、思ってたよりずっと簡単でした。

そしてそれを叶えた先は、思ってたのと全然違った。というか、叶えた先を思ったことはもしかしたらなかったのかもしれない。

夢の職業、憧れの場所。そこにたどり着くことばかり考えて、たどり着いた先のことなんて考えもしなかったのかもしれません。

夢見た舞台のその先にも、今までと同じ生活があるだなんてことは。

 

やりたかった仕事ももちろんできるけど、やりたくないことだってある。

夢見ていた生活ができているはずだけど、思いもかけない面白くないこともある。

 

華やかな場面ばかり想像して勝手に盛り上がっていたけど、夢の舞台にだって日々の地味な生活はあるわけです。

 

当たり前なんだけどね。

夢見てそれを夢想したり、その実現の為に必死になっているときは、案外叶った後のことなんて見えてないのかも知れません。

叶えてしまえば、それが日常になり、それを続けるための地道な日々がまた続いていくわけです。

 

ただこれに気づけると、夢の途上にいる人も、すでに夢を叶えている人に下手な嫉妬をしなくなるのかなと思います。

どんな人も、どんな境遇にあっても、大変は大変。

だったらいっそ今この時を楽しく過ごすことがやっぱり一番お得なのかもしれませんよね。

歳の差育児もなかなかいいもんだ

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昔、何かのドラマで見たシーンを今も覚えています。

二人目不妊に悩む母親が、不妊症外来の診断を受けている場面。

先生がカルテを見ながら「上の子は今度の4月で小学校入学でしたね。もういよいよ頑張らないと、後がないね」とみたいなことを告げるのです。


そのシーンをテレビ越しに眺めながら、あ、6歳差って兄弟としては歳が離れ過ぎなんだって知りました。

あくまでもそのドラマの中での話ですが、二人目を願っても授かれないまま上の子が6歳を迎えていた私は、今も忘れられないくらいその言葉にショックを受けたのでした。

 

縁あって、いまは二人の子どもに恵まれ今絶賛お母さんをやっています。

上の子は今年10歳小学四年生、下の子は3歳。その差7年。結構年の離れた兄妹だと思います。


上の子を産んだときは、私もまだ無鉄砲というか考えなしというか、とにかく子育てなんてさっさと終わらせて、元気なうちに自分の時間もしっかり確保するぞーなんて思ってました。

3学年差は大変だと聞いてたので、まぁ2歳差くらいでもう一人産んで、7~8年くらい集中して子育てしたらいいよね、的な。

 

そんな甘い見通しはこれっぽちも通用せず、予定の2年を過ぎても二人目の顔は見られませんでした。

確か3年目の頃から「二人目は?」の質問を受けるようになり、それが5年目には「一人っ子はかわいそうよ」という言葉に。

 

願っても、叶わないことはあるのだなと一人涙してすっかり諦めた7年目。本当にあっけなく、娘が産まれました。


7年のうちにすっかり衰えた私の体と体力に、新生児のお世話はそれはそれは大変で、でも願い続けて授かった念願の我が子の可愛さに支えられ、今日まで無事に生かすことができているのだと思います。

 

久々の新生児は、とても可愛い。とにかく可愛い。なんだかもう孫の世話をしているようです。

どこか、一歩下がって落ち着いてお世話をすることができるのですよね。

単に二人目で慣れもあるのかもしれないけれど、こんな風に冷静に子育てができる自分が信じられない思いです。

 

そして息子。赤ちゃん返りもなく、赤ちゃん相手に嫉妬することもなく、とても優しいお兄ちゃんです。

おそらく最初は妹のことを可愛い小動物くらいにしか思ってなかった。嫉妬の対象とは思いもしなかったに違いありません。

 

息子が余裕を持って娘に接しているさまを見ていると、歳の差があって良かったのかもしれないなと心底思います。

もちろん内心、やっぱり2歳差くらいで二人目を生んで、二人ともころころした赤ちゃん同士で遊ばせてあげたかったなぁなんて思うけど、わが家の場合はやっぱり7歳さがベストだったんだろうな。

 

妊娠、出産って、全然思った通りにいかない。

2歳差で産みたいと思っていた私は、そうならない現実にボコボコにへこんでいました。

周囲の人に話を聞くと、当時の私と同じく、兄弟を生むなら2歳差くらいでって人も多いけど、もしも願った通りにいかなくても、こんな風に結局それでうまくいっている家庭もあることを知ってほしい。

 

昔の人は言い得て妙で、こどもは授かりもの。一番いいタイミングで産まれてきてくれるのだと伝えたいです。

 

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夫婦の主語は「私たち」

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夫婦のことを考えるとき、主語は「私たち」にしている。

日々の生活のことでも、将来のことを考えるときも、主語は「私は」でも「夫が」でもなく、「私たちは」に。

 

夫婦って、お互いがそう願って成立する関係なのに、どうも対立しがちだなと思います。

家族という近しい間柄だから、お互いに甘えてしまったり、そのあり方に慣れてしまったり、理由は色々あるんだろうけど、世のたくさんのご夫婦を見ていても我が家の現状を振り返っても、なんかちょっと敵対心を感じることがある。

 

私ばっかり苦労して、あの人は楽してばっかり、みたいな。

かと思えば、実は相手も同じように思ってたりしてね。

 

私も同じです。

私ばっかり家事してる。私だって仕事で疲れてるのに。

お皿くらい(夫が)洗ってくれればいいのに。なんで気づかないかな。

 

私は。私が。私ばっかり。

夫は。夫が。夫にとっては。

自分を棚に上げて、夫はやり玉にあげられるばっかり。そりゃ自然と夫が悪者になっちゃいますよね。

 

そうやって日々、自分の中で夫を悪者に仕立て上げ続けると、本当にどんどん彼が悪い人みたいに思い込んでいくことになり、それを改善すべく、せめて頭の中で考えるときだけでも、主語を「私たち」に変えてみることにしました。

 

私たちは仕事で疲れてるから(掃除はまた明日でいいや)。

こうすると私たちが過ごしやすくなりそう。

これはそもそも私たちにとって時間を割いてやるほど大事なことなのかな。

 

 

不思議なもので、「私たち」って考えるだけで自然と夫と自分をひとつのものとみなしている気がします。

夫か私どちらか一方の快適さを考えるんじゃなく、私たち二人が快適に過ごすためにどうしたらいいか考えている。

 

個人を尊ぶのも大事だけど、夫婦をまるっと一つのチームとみなして、「私たち」のためにできることを実行できれば、家庭という世界がもっと居心地よくなるんじゃないかなと思います。

せっかく、縁あって巡り合った夫婦なのでね、私たちは。

お互いを仲間だと信じて、円満に楽しく家庭を運営していきたいよね。

自給自足の暮らしぶりに引きこまれる、映画「リトルフォレスト」

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自給自足の暮らしぶりに引きこまれる、映画「リトルフォレスト」

とても好きな映画に出会いました。

映画「リトルフォレスト」です。

 

都会暮らしに馴染めず田舎に戻って来た主人公いち子は、畑仕事をしながら、自給自足の生活をしています。

畑でとれる野菜、森や野でとれる季節の食材をいかして食事を作り、日々を過ごす。

ストーブでパンを焼き、魚や鴨をさばき、食材を貯蔵し、ソースまで手作りする。

 

夏から始まり四季を巡る4部作が、夏秋編と冬春編の2部に分けて公開されたようです。

 


映画『リトル・フォレスト 夏編・秋編』予告編

 


映画『リトル・フォレスト 冬・春』予告編

 

 

いち子の暮らしぶりが、見ていてとても気持ちが良いのです。

 

自分で食べる分を自分の畑で作る。

動物たちと競って、野山に自生する自然をうまく食卓に並べる。

道具を手入れし活用する。

動物の命を頂く。

食材を保存し、冬の間の貯えとする。

そしてそれを繰り返す。

 

淡々とたくましく一人で生活していながらも、失踪した母との関係や自分の居場所を求めて内心では迷い続けるいち子の姿を見ていると心揺さぶられるものがあります。

そして自分も、たくましく生活していこうという気持ちをもらえます。

 

プライムビデオやU-NEXTなどで見れますので、お時間のある時にぜひ。

 

子どもに言わないと決めた言葉3つ

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子どもに言わないと決めた言葉3つ

子どもと一緒にいるとつい口やかましくなってしまいます。

彼らのことを思って、これから先のことを心配してかける言葉もあれば、自分の感情のはけ口のように一方的にきつい言葉を言ってしまうことも。

そんな時はいつも後から後悔します。

だから、もう子どもたちには言わないと決めた言葉があります。

 

「ちゃんとして」

きちんと、っていう意味に近いのかな。

これ、言いがち。そして私自身も子ども時代によく言われた言葉です。

 

こたつに寝っ転がってテレビを見ていて「ちゃんとしなさい」。

明日授業で使う教科書が見つからず「あなたがちゃんとしないからだよ」。

学校ではしょっちゅう言われた「ちゃんとやったの?」。

言われるたびに「ちゃんと」ってどういうことだろうな。何をしたら、どういう風にしたらいいんだろうなと思ってました。

 

ちゃんとするって主観のものさしだから、自分ではちゃんとできているつもりでも相手にとってはそうでないこともあるのですよね。

特に子どもと大人じゃ、尺度が全然ちがうことが多い。

 

この言葉を言いそうになったら、ぐっと口をつぐんで具体的な指示を出すようにしています。

「机の上の物を元の場所にもどそうね」

「忘れ物がないか、もう一回カバンの中身を全部出して確認しようか」

「食べるときはひじをつかないで背中を伸ばそうね」

 

「あなたのせいだよ」

保育園に遅れたのは「あなたのせいだよ」。

騒いでいて叱られたのは「あなたのせいだよ」。

私がこんな大変な思いをするのは「あなたのせいだよ」。

 

きつい言葉ですね。

何かの失敗を自分のせいにされるというのは大人にとってもつらいことです。

ましてや子どもにとってはますますのこと。

 

たしかに子どもたちにも非があったかもしれない。

注意しないと同じことを繰り返すかもしれない。

だからと言ってこの言葉は非難であって注意ではないのです。

注意するというのは、現状の問題は何か、その解決のために何ができるか、今後同じことが起きないようにどうするか、を一緒に考えることだと思います。

誰のせいか、なんて必要ありません。 

 

「もう知らない」

この言葉、一度だけ息子に言ったことがあります。

息子が自分のある行動を誤魔化そうとしてウソをついたことがありました。

それまでそんなことをしたことがなかったので、気づいたときにはショックで、二度としないように注意せねばと焦っていたのかもしれません。

二人で話していて、彼に反省の色が見えない気がして、ついカっとなって「もう知らない」と突き放してしまったんです。

今も後悔しています。あの時の息子の気持ちを思うと、自分を叩いてやりたい。

 

もう2度と言いません。

たとえ子どもたちが悪いことをしても、犯罪を犯しても、大人になって彼らが私のことを拒否しても、くそばばぁと言われても、私だけは彼らの一番の味方でいよう。

 

以上、子どもに言わないと決めた3つの言葉でした。

今でも頭に血がのぼるとつい言ってしまいそうになるけど、言わないと決めたことは守り抜こうと思います。

子どもたちと仲良く楽しく暮らしていくために。