「嫌われる勇気」に書かれていた”人を信じる”を実践し、迷走中

 

人を信じる、ということについて以前ブログに書きました。

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あれから2週間弱。今、絶賛迷走中です。笑

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上手くいかないんですよね~。今日はなんで上手くいかないのか、悩みつつ振り返ってみます。

 

まずは簡単におさらい、信頼とは

上記の記事は、人間関係を苦手とする私が、ベストセラーの「嫌われる勇気」を読んで、人を信じることはどういうことなのかを整理するために書きました。

 

それまでの私、条件付きで人を信じようとする「信用」であったから上手くいかなかった。

人を信じるとは無条件で相手を信じる「信頼」である。人が自分を信じてくれるかとか、裏切らないかとか、自分に何か利益をもたらすかどうかとかそんなのは関係なく、無条件で人を信じること。

信頼であれば、信じると決めてしまえば一人でできる。

 

だからそんなことが本当に可能かどうか、家族を相手に実践してみることにしたのです。

それが6月28日。そしてその翌日から挫折したというポンコツっぷり。

 

そもそも人を信じるってどうやるの??

もう見出しそのままなんですけど、人を信じるってどうやればいいんだろう??

「人を信じる」って言葉ではよく使うし、なんかもう当たり前の概念みたいになってるんですけど、実際やろうと思ったら、何をどうやればいいのか全然わかりませんでした。

うそーん、て感じですけど、ほんとです。

 

なんかね、わかるような気もするんです。

たとえば、誰かと話していて、相手が適当なこと言ってんなーって時に、「まぁでも信じてみるか」みたいなのはわかるんです。

言葉で説明するなら「本当だと思って疑わない」ってことですよね。上の例だと前提部分に疑い入っちゃってますけど。

 

でもね、私が実験したかった「信頼」とか「人を信じる」ってね、それとはちょっと違う気がするんですよね。あれ?そうでもないのか??あれれ??

 

実際にやってみて、上手くいってたところ

何がどう上手くいかなかったか、もう少し掘り下げます。

 

夫に対しては、割と上手くいってたと思うんです。

今までは、彼が何か提案してくれたこととかやろうとしてることに対してあーだこーだ言ってたんだけど、信じるって決めたら、何言われても「いいね~」って返せた。

内心何か思うところがあっても、「(いいかどうか私にはわからないけど上手くいくと)いいね!」って感じ。

 

嫌われる勇気で哲人が「課題の分離」が大切と言ってたけど、対夫に関しては、この課題の分離がうまくできたんじゃないかと思う。

それが上手くいくかどうかは私にはどうしようもないことだからっていう、文字にしちゃうとちょっと諦めっぽい雰囲気だけど、前向きな諦めみたいな。そこは夫に託そうって気持ち。

で、私は私にできる範囲でだけで協力しようって。

 

夫を信じるということは「本当だと信じて疑わない」とはちょっと違って、「彼、もしくは将来の彼に判断を委ね、自分はできる協力をする」ってこと。

うん、こんな感じ。

そしてそれは、完ぺきではなくても好感触でできてたんです。

 

上手くいかなかったところ、対息子

ところがどっこい。息子に対してはこれが全然上手くいかなかった。

夫の時と同じく、「彼、もしくは将来の彼に判断を委ね、自分はできる協力をする」って姿勢だったんですけどね。

 

たとえば、夕飯前に息子がお菓子を食べたいっていう。

そこで私は考えるわけです。

 

今お菓子を食べる→ごはんが食べられなくなる→それは彼の身体的発達上好ましいことではない。

だがしかし、ここで「お菓子を食べたい」という彼の欲求に「それをするとごはんが食べられなくなりますよ」と助言をすることは「お菓子は食べない方が良い」という操作になるんではないか。そもそもこのお菓子を食べる→ごはんが食べられなくなる→体に必要な栄養を補えない、という問題は息子の課題であって、私の課題じゃない。

ということはそこは割り切って今私にできること(お菓子を与えること)をするにとどめるべきなのか…。

って悩んでる間に息子は盛大にお菓子の袋を開けていました。笑

 

そして翌日。また来るわけです、夕飯前に「お菓子食べたい」。

でも母も、前日無駄に悩んでますから。その日はもう対応を考えてたんすよ。

やっぱりこれは息子の課題であると。そこは間違いない。

で、じゃあ私がやるべきことは「援助」ですよね。息子は「夕飯前にお菓子を食べるとごはんが入らなくなる、ひいては自己の成長に支障をきたすかもしれない」ことが分からないだけなので、それを説明し、そのうえで彼にお菓子を食べるか、お菓子を控えて夕飯を食べるかを選択させればいいのだと。

「操作」したいんじゃない、あくまでもやるのは「援助」だから、最終的な判断は息子がする。

 

そう考えて、実際にやってみた。

で、彼はお菓子を選んだ。そりゃ、お菓子選びますよね!私でもそうだわ。笑

 

どうしたらよかったんだろうなぁ。

考え方としては間違えてなかったと思うし、今書いていても、間違えてないと思う。

説明の仕方が悪かったんかな。

結局息子は二日連続、晩ごはんが食べられなくて、夫に叱られ、夜中にお腹がすいてひんひん言って、私と二人でうどんをすすりました。笑

なんかなー、違うんだよなー、もっとこう、上手くいくはずだったんだけどなぁ。

 

自分なりの改善点

さてここまで自分の行いを振り返ってきました。ここからは自分なりの改善点を見つけていこうと思います。

ちなみに、私も2週間ただ悩んでただけじゃなくて、「人を信じる」ということを考えたり調べたりしてみたんですよ。

 「幸せになる勇気」も読んでみた。

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

 本当はもっと「嫌われる勇気」をものにしてから読みたくて取っておいたんだけど、そんなこと言ってる場合じゃないからね。

読んでみたら、「教育とは」っていうのが話の軸になっていて、これはいいぞと思ったんだけど、なんだかわかったようなわからないような。やっぱり一回読んだだけじゃ理解しきれないね。

 

ともかく。

今の自分にとって必要なこと、それは「援助」と「介入」の差を明確にして、息子を「援助」するための具体的な方法を知ること、ではないかと。

そのために、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」を再読するのはもちろん、著者である岸見先生の他の書籍も読んでみようと思います。特に子育てについての本。

そしてなにより、息子との日々のやり取り。これも大事。

 

完全に迷走気味な記事だけど、書いてよかった。ちょっと頭の中が整理できた気がします。

 

何事も言うは易く行うは難し。

でも試行錯誤しながら自分を磨いていくのはとても楽しい。もう少し頑張ってみよう。

 

【追記】

岸見先生の本を読んで、こどもへの接し方について、他にもこんなことを気を付けてます。

よろしければあわせてご覧ください。

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