人間にだけ多くを求めすぎ

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人間にだけ多くを求めすぎ

先日、買ってきた切り花のつぼみが綺麗に咲きました。

優しいピンク色で見ているだけで嬉しくなります。

 

花はただ咲くだけで喜ばれる。

それに比べて人は、いつの世も多くのことを求められます。

 

人として誠実であり、優しいお母さんであり、良くできた妻であり、仕事をしながら親の面倒もみる。

空気を読んで社会に馴染み、夢を持って自分を高め、努力して居場所を作る。

 

究極的には人だってただそこにいるだけでいいはずなのに。

そこにいるだけで誰かを喜ばせることができているはずなのに。

 

自分にも誰かにもちょっと求めすぎているよなぁと、繊細な花びらを見ながら思いました。

観賞用の植物と社会性を持った人間を同じものさしで測ることはできないかもしれないけど、それでも人間の抱える荷物の多さに辟易します。

 

ただそこにいてくれるだけでいい。

自分にも、子どもにも、家族にも、周りの人にも、そんなふうに思えたらいいなぁ。

「快楽」ではなく「快適」を

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「快楽」ではなく「快適」を

快楽と快適。

1字違いで意味の大きく異なるこのふたつを、私はよく混同しがちです。

特に、なんだか元気が出ない時は。

 

疲れた自分を労わってやりたくて、つい手に取りがちなのがお酒やお菓子。疲れた体にビールが染みるなんて言いながら。

何も考えずにぼーっとテレビやスマホの画面を見てる。賑やかな画面の先に面白いものや楽しい世界がある気がして。

日常にうんざりして、ぱーっと旅行で楽しもう。

今持ってる服に飽きて、新しい服や靴を買い漁る。

 

どれも、日々の生活に潤いを与えたくてやってること。

疲れた自分を励まそうとしてやってること。

ところが実際にやってることは、気分をまぎらわせたくて、手軽な刺激に手を出しているに過ぎないみたい。

 

そんなことより、心身にとっての快適さってなんだろうと考えて、それをやる方がいいよね。

さっさと布団に入ってこんこんと眠る、とか。

とにかく散歩に出て足を動かす、とか。

頭を空っぽにして鍋を磨く、とか。

 

安易な刺激を求めて快楽にハマるより、自分にとっての快適さとは何かを探る方が体にも心にもきっといい。

 

気づいたことは、気づいたときに

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気づいたことは、気づいたときに

 

気になったことは、その場で対処するようにしています。

 

床にゴミが落ちているのに気づいたら、拾ってゴミ箱に捨てる。

自転車のタイヤがへたれてると気づいたら、空気を入れる。

システムのここを直した方がいいと思ったら、上長に言ってみる。

 

その場で簡単に解消できることならすぐにやってしまうし、解決まで至らなくてもできることがあるならやってみる。

そうでないと、何度もそれに遭遇することになるから。それが嫌。

 

人間は一日にたくさんのことを考えて、その多くは同じことの繰り返しらしい。

ただでさえ同じことを何度も何度も考えているのに、床に落ちているゴミのことまで何度も気にしたくないのです。

 

「あ、ゴミ落ちてる」

「まぁ後で拾えばいっか」

「あ、そっかさっきも気づいたのにまだ落ちてる」

「そもそも誰が落としたんだあのゴミ」

「いっつも私ばっかりゴミ片付けてる気がする」

「落としたやつが拾うべきじゃない?」

そんな風にどんどんネガティブな方向に思考が進んでいき、結局拾わずに翌日「あー、そういえばそこゴミ落ちてたんだ」ってまた考えたり。

 

私の場合、ゴミ一つとってもこんな感じなのです。

気づいたときにさっさと捨ててしまえば、その1回で終わり。

 

あれこれ考えてしまう前に、気づいたことは気づいたときにさっと手を動かして対処してしまう。

それが結局いちばん楽なのかもしれません。

こだわるところと、こだわらなくてもいいところ

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「どっちでもいい」って実は最強じゃない?

何かを選ぶとき「どっちでもいいよ」「○○でいいよ」「なんでもいいよ」は使わないようにしましょうってよく聞きます。

決断力がなく自信なさげに見えてしまうし、「もっと自分の好き!を大事にしないと」っていう最近の風潮によるところもあるのかもしれません。

 

自分の人生は自分の選んできたものでできている。

その人生を、自分の好きでいっぱいにすることが幸せにつながる。

 

それはもちろん一理あるのだと思いますが、じゃあ物事全てにおいて「好き」を指標にする必要があるのかというと、そんなこともないんじゃないでしょうか。

 

ここはこだわりたいところだから、譲らず「好き」を大事に選ぶ。

だけどこっちは、自分にとってそんなにこだわりがないところだから「どっちでもいい」。

そんなバランスでいるのも心地よいものだなと思います。

 

直観力を磨くため、どんなものにでも「好き」「嫌い」をはっきりさせる。

ランチのメニュー一つでも、自分が本当に食べたいものを選ぶこと。

 

そうしたいときはそれもありだけど、別にそこはこだわらないなと思ったら「Aランチにするの?じゃあ私も」でもいいんじゃないかな。

そこで広がる新しい世界もあると思う。

 

決めた後になんとなく自分を押し殺している気分になるときは、こだわりたいところ。

そこは自分の直感や好きを大事にして選んだ方が良い。

それ以外のこだわらないところは、のんびりゆったり「どっちでもいいよ」の姿勢でいよう。

だってどっちを選んだとしても良いだなんて、最強じゃないですか。

そんな選択肢も持っていれたら楽しいよね。

努力は必ずしも報われないが、しかし・・・

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努力は必ずしも報われないが、しかし・・・

勇気を出してやってみたけど結局うまくいかなかったなってこと、今まで何度もあります。

 

結構頑張ったんだけどな。

無理かなと思いつつ、でもひょっとしたらって思ったんだけど。

結局いっつもこうなっちゃうんだよね。

なんて、ちょっと自信喪失してしまうことも一度や二度ではありません。

 

こうなろうという目標を持って、今の自分では無謀かもしれない理想を目指して、できることは全部やって、毎日努力を重ねて、でもやっぱりダメだった。届かなかった。

成長する過程でそういう経験は誰にでもある。

それでふてくされてしまう気持ちも痛いほどわかるし、実際私は何度もふてくされてきた。

 

だけど、最終的な目標には届かなかったにしても、努力の過程で得られるものは実はたくさんあるはずなのだ。

試験には不合格だったとしても、毎日決めた分の学習をこなせたこと。

結局仕事はやめてしまったけど、そこで得たスキルは自分のものになってる。

リバウンドしちゃったけど、自分の力で理想の体形になれた一瞬があったこと。

 

目標を目指して進んできた途中で、たくさんの自信を育てている。

努力は必ずしも報われないが、しかしたくさんの副産物をくれる。

だから、何もしないのが一番もったいない。