つまんないのはその作品じゃないかも

最近、美術にまつわる本を読みました。

みんなが知っている有名なあの絵画、プロはこんな風に見ているんですよっていう内容の本です。

これまでは、美術を専門に扱っている人はその絵が描かれた背景や芸術家その人についての知識が豊富だから絵が楽しめるのだと思っていたし、実際そういう面ももちろんあるのでしょうけれど、なんの予備知識がなくともそういう見方で絵画を楽しむことができるのか!ということが分かって、目からうろこがぽろぽろ落ちました。

私はもともと美術館や博物館が好きです。

でも芸術に関する知識なんて全然なくて、例えば絵画を見るにしてもパッと見たときの印象で「なんか好き」「なんかよく分かんない(=好きじゃない)」って思うくらいでした。

ところがこの本の知識を持って絵画を見てみると印象だけではなく、「画家の意図は?」「一番コントラストがきいているのはどこだろう」「なんでそういう印象になるんだろう」っていう見方ができるようになって、以前よりぐっと楽しめていることに気づいたのです。

 

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何かを「あ、これつまんないな」と思うとき。

映画だったり、テレビ番組だったり、漫画だったり、本だったり、ゲームだったり、どんな作品でも、途中で「なんかつまんないな」って思うときがあります。

なんかダラダラした感じ。

意味不明。

言ってることが浅い。

そんな風に思っちゃって、作品を楽しめなくなる。

これ以上続けるのは時間の無駄だなって思って、途中で見るのをやめてしまった映画やドラマもたくさんあるし、途中までしか読まなかった漫画や小説もたくさんあります。

むしろこんなつまんないものに費やした分の時間を返してほしいよ、なんて思ったり。

 

だけどそれってもしかして、つまらないのは作品そのものじゃなく見ている私なんじゃないかな。

私になんの知識もないから、その作品の良さに気づけないだけかもしれない。

知識に限らず、人生で味わった感情、得られた知見。

自分の知っている、理解できる範囲でしか人は情報を受け取ることができないのかもしれない。

ただ「つまんないから」で途中で楽しむことを止めてしまった作品たち。

実は私が理解できなかっただけで、もしかしたらすっごく面白いものだってあったかもしれないよね。

 

物事から受け取ることができる情報量は、私の器が大きくなるほど増えていく。

自分の知識や経験が増えるほど、楽しめることが増えていくなんてなんて楽しいことだろう

見えない誰かの助けによって

我が地域のゴミ捨て場は、カラスに狙われている。

一部の住人が、食べ残しや生ごみなどを無頓着にゴミ袋に入れているようで、そりゃカラスとしてはぜひとも美味しく召し上がりたいだろうって感じ。

ご馳走に歓喜した結果、往来にゴミが散らばってしまうのも無理はない。

でもそれを片付けるこっちの都合も、少しは考えて頂きたい。

ほぼ毎週のように散らかったゴミを集め、水を流して掃除をし、予防のためにとゴミたちの上にネットをかけたり、鬼の顔を描いた風船を袋に結びつけたりしていた。

するとピタッと、カラスの襲撃がなくなった。

暑くなったからカラスも夏バテかな~なんて笑いながら、路上にきれいに並んだゴミ袋を満足気に眺めて出勤する私。嬉しかった。

忙しい朝の時間に他人のゴミを集めて回るのは中々にしんどいものですし。

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ところがである。

昨日、いつもより少し早めに出勤しようとしたら、道路中に散らばったゴミを隣のおばちゃんが掃除してくれてた。

慌てて駆け寄ってみると「ねー、最近またひどいよね、毎週こんなだよ」って。

カラスの祝宴は続いていた。

単に、私が気付く前に隣人が清めてくれてただけだった。

自分が描いた何の役にもたっていな不細工な鬼の風船が、あきれたようにこっちを見ていた(気がする)。

 

今日の自分が、平穏に、平和に、無事に、つつがなく、最高ではないかもしれないけど特別これに困ったなぁってことなく、一日を過ごすことができたのは見えないところで誰かがそっと助けてくれているからなんだろうな。

私の代わりに夕飯を作ってくれた夫。

私の不在時に緊急対応してくれた同僚。

職場をすみずみまできれいにしてくれる掃除のおばちゃんのおかげで今日も気持ちよくトイレを使わせてもらえるし、コーヒーを育てて、出荷して、加工して、運んで、売って、淹れてくれる人がいるから私は美味しいコーヒーが飲める。

そういう、見える部分だけでもたくさんの人に支えてもらっているのに。

目に見えない、私が気付くこともない、だから感謝することすらない、たくさんのたくさんの人の手によって私は今日も気持ちよく暮らしているんだ。

その途方のなさにちょっと尻込みしつつ、私も相手に気づかれずにそっと誰かのためになるような些細な存在でありたいものだなと思う。

好奇心を満たした先に、教養がある

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先日ある神社を参拝した時に、境内の前に大きな樹が一本立っていました。

枝先を見ると小さなつぼみがたくさんついていて、樹皮のボコボコした感じから「もしかして桜かな?」と連れと話していたら、丁度正面に「桜(ソメイヨシノ)」と看板が下がっていました。

やっぱり桜だったね、と納得したのですけど、実はその看板に他にも案内が書いてあったんです。

 

『桜(ソメイヨシノ) バラ科』

 

え、バラ科?桜なのに??

不思議に思いつつ調べてみたら、なんと桜は分類上はバラ科なのですね。

桜だけでなく、私が調べた限りでは梅も桃もバラ科でした。バラ科すごい。

 

こういう雑学を仕入れたら、すぐ人に話したくなります。うずうずしちゃう。

ちょうど翌日の通勤中、同僚と梅の木の前を通ったので「知ってました?梅って実はバラ科なんですよ」ってドヤ顔で披露しました。

「桜も桃も、もっというとリンゴもイチゴもアーモンドも全部バラ科なんですー」

同僚も優しい人だから「えー、そうなの?知らなかった~!」なんて大げさに喜んでくれちゃって。

気分よく歩いてたら、その同僚の彼女が一言。

「教養あるね~」って。

 

『教養ある』。

そんなの初めて言われました(たぶん)。

 

おそらく世間一般で言うところの「教養がある人」というのは、私のように調べたことを言いふらしたくてたまらない人種ではなく、どんな話題であっても幅広い知識を通して豊かさを得られる人なのだと思います。

なので私は教養のある人ではない。

ではないが、しかし、確かに教養の一端を垣間見た気がするのも確かです。

 

教養ある大人になる、というとものすごく途方もない感じがするけれども、ひょっとするとその教養というのはこういうごく身近の、今この時に疑問に思うことを調べていったことで得られる知識の集合体なのかもしれない。

好奇心を満たしていった先に、憧れの教養ある大人になった自分がいるのかもしれないなぁと思ったのでした。

夢を叶えた後も、生活は続く

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生活のためにお金を稼ぐ必要がなくなって、まずやりたいと思ったのが「高校時代に憧れていた職業に就く」ことでした。

ある職業に就くことを夢見ていたものの、当時の担任の先生に「あなたには向いていないし、もしなれたとしても(お給料がそんなに良くないから)大変だよ」と言われて諦めていたのです。

他人のそんな一言で簡単に諦めがつく程度と言われればそれまでなのですけど、そして、それを諦めて進んだ今の人生に一切の悔いはないけれど、心のどこかに引っかかっていたのも本当のことです。

 

せっかくならば、今こそその夢を叶えるときじゃないかと奮い立ちました。

そこからは、我ながら素早かった。

インターネットの通信講座に申込み、2年の予定が1年で無事資格取得。

資格が取れる分かった段階で求人検索をしてみたら、たまたま近所の職場で希望通りの職種、待遇の求人があり、ダメ元で応募したところ翌週にはその職場で働いていました。

 

あっけなく、自分でもびっくりするほどトントン拍子に、夢の職業に就いていました。

今でも仕事中にふと手を止めて、あぁ今の私は学生時代の自分が憧れていた場にいるんだなって思うことがあります。

 

それを叶えるのは、思ってたよりずっと簡単でした。

そしてそれを叶えた先は、思ってたのと全然違った。というか、叶えた先を思ったことはもしかしたらなかったのかもしれない。

夢の職業、憧れの場所。そこにたどり着くことばかり考えて、たどり着いた先のことなんて考えもしなかったのかもしれません。

夢見た舞台のその先にも、今までと同じ生活があるだなんてことは。

 

やりたかった仕事ももちろんできるけど、やりたくないことだってある。

夢見ていた生活ができているはずだけど、思いもかけない面白くないこともある。

 

華やかな場面ばかり想像して勝手に盛り上がっていたけど、夢の舞台にだって日々の地味な生活はあるわけです。

 

当たり前なんだけどね。

夢見てそれを夢想したり、その実現の為に必死になっているときは、案外叶った後のことなんて見えてないのかも知れません。

叶えてしまえば、それが日常になり、それを続けるための地道な日々がまた続いていくわけです。

 

ただこれに気づけると、夢の途上にいる人も、すでに夢を叶えている人に下手な嫉妬をしなくなるのかなと思います。

どんな人も、どんな境遇にあっても、大変は大変。

だったらいっそ今この時を楽しく過ごすことがやっぱり一番お得なのかもしれませんよね。

まじめに楽しく働こう

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まじめに楽しく働こう

働いてお給料を貰うということを初めて体験した居酒屋でのアルバイト。

キャパオーバーの仕事を泊まり込みで必死に回した新卒入社の会社。

自分が一番満足できる働き方を模索し続けた2社目。

そして今は自分で仕事をしつつ、経験を積みたくて多業種のお務めにも出ています。

 

いくつかの職場や働き方を経験してきて実感していることは「仕事は面白い」ということ。

 

眠る時間もないほど無茶な仕事量をこなさねばならなかったり、心配事でプライベートにも悪影響が出てしまうようなこともあったけど、今となってはそれもすべて自分の未熟さゆえだったなと思います。

単なる力量不足だったり、自分の求めるものが何かわかってなかったこと、それを上手に要求する術を知らなかったこと等が原因だったのですね。

 

仕事は面白いです。

社会に対して自分一人ではできない貢献をすることができるし、そうしているうちにいつの間にか自分のスキルもあがっている。

こんな面白いことなかなかないよ。楽しまなきゃもったいない。

さぁ今日も、まじめに楽しく働こう。