誰にだって「失敗する」権利がある
夫と息子はよく似ている。几帳面な性格で用意周到なのに、時々笑ってしまうような抜けっぷりを披露するところも、そっくりだ。
夫は油性ペンと間違えて水性ペンを買ってくるし、息子は月曜日のたびに上靴を忘れて登校する。
今朝8時半には出発すると言っていた夫は8時25分の段階でまだ寝ていたし、今日は卓球のレッスンだねと話していたのに次の瞬間には友達と遊びに行く約束をしている息子。
どれもささやかで、ぷっと笑っちゃうようなミス。
だけどこれらを、ぷっと笑って済ませるようになれたのは、私にとって大いなる成長なのであります。
失敗を回避させたいというのも愛情のひとつ
以前は、彼らの行動のずさんっぷりが心配で、見ていてハラハラしたし、案の定なんらか失敗しているさまを見て「ほらほらやっぱり」と手を焼いてばかりいた。
そして同じことを繰り返す彼らにイラつき、なんとか失敗を回避させようと手を出し口を出し、だけどいつも私が注意を払わなければいけないことにさらにイライラしていました。
そもそも、根本にあるのは愛情だと思うのです。
彼らが失敗して、それによって被害をこうむらないようにしてあげたいという愛情。
ペンを買い間違えてしまったら、もう一度お店に行って交換してもらう手間が発生しちゃうから仕事に遅れて困ってしまうかも。
上靴を忘れちゃったら一日靴下で過ごさなくちゃいけないから、さぞ気持ち悪いだろうな、とか。
約束の時間に遅れたら、レッスンと友達の約束をダブルブッキングしたら、人に嫌われてしまうかも、とか。
彼らが日々の生活で困った状況や悲しい思いをしなくて済むようにしてあげたい。
そんな気持ちで私は毎日あれこれと口を出し、彼らが学習するようにぷりぷり怒っていたのです。
失敗する経験を奪われるのは、その人にとっての損失でもある
だけど夫も息子も何も変わりませんでした。
夫は今日も時間ギリギリになり、買い物を間違え、息子は忘れ物をし、ジュースをこばす。
あぁそうか、私が先回りして心配し、いくら口を酸っぱくして注意しても、イライラしながら苦言を呈しても、結局彼らが自分で「どうにかしなければ」と思わなければ何も変わらないんだな。
いつもぎりぎりで私が助けてあげて、かろうじて難を逃れているから、同じことを繰り返してしまうんだな。
そう思って、先回りして心配することを一切やめてみました。
そして不思議と、一切手を出さなくなってからの方が色んなことがうまく回り始めました。
失敗して、そこから学ぶから人は成長する
夫は、多少ぎりぎりになって慌てて出ていくことはあれど、仕事や相手のある用事で実際に遅刻することはないし(そもそも5分前に起きても割と余裕で出発してた)。
息子は2週連続で上靴を忘れたのち、何も言われずとも自ら日曜の夜のうちに玄関に持ち物一式を用意するようになった。
誰にだって、失敗するっていう権利がある。そしてその失敗から学ぶという権利も。
私がやっていたことは、彼らの学びのための経験をつみ取ることでしかなかったんだな。
失敗すればいい。
失敗だって大事な経験なんだから、失敗することを恐れたり、心配する必要はどこにもない。
失敗して、あちゃーって思うから人は学んで成長することができるんだ。
失敗しないように先回りして手を貸すことは、その人の成長を奪うことでもある。
失敗してから、助けてあげても遅くない
いまは傍で見ていて気になることがあっても、以前のように口やかましく言うことはなくなりました。
「こうした方が良いんじゃない?」っていうこともあるけど、その程度。
相手がそれを聞き入れても、聞き流されても、どっちでもいいやと思ってる。
それよりも、夫や息子が何か失敗して困った事態になり「助けてほしい」と言われた時に全力で手助けすることに注力してる。
そしてたいていのことは、それからでもどうにかなる。
私の手助けなんか必要ないことも多くて、だいたいのことは彼らが自力でどうにかしてる。
夫はともかく、息子に関しては、彼一人でも色んな状況を切り抜けることができるということに驚いたくらい。
なーんだ、私がやっていたことは、文字通り余計なお世話だったんだ。
親として、家族として、ついついプラスの経験をさせることにばかり気が向いてしまうけど、「失敗したこと」「困ったこと」を経験することで学ぶ力を身につけることも、立派なプラスだ。
誰かの貴重な経験を、自分の小さな物差しで測ったり、あまつさえそれを奪うことがないように、あたたかく見守っていこう。